北別府さん、ありがとう…広島の盟友・大野氏涙の弔辞「早すぎるよ」 達川氏「一球に命を懸けた投手」

[ 2023年6月20日 06:30 ]

祭壇に飾られた北別府学氏の遺影
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 広島のエースとして黄金期を築き、16日に成人T細胞白血病(ATL)のため65歳で死去した北別府学さんの葬儀が19日、広島市内の斎場でしめやかに営まれ、広島カープOB会会長で本紙評論家の大野豊氏(67)が悲しみの涙を流しながら弔辞を読んだ。松田元(はじめ)オーナー(72)や山本浩二元監督(76)ら球団関係者やOBら191人が参列。不世出の大投手の旅立ちを見送った。 

 祭壇は、北別府さんにとっての聖地・旧広島市民球場をモチーフに組まれた。色鮮やかな花で球場をかたどり、バックスクリーンのパネルの前には「H」の白い花文字。故人が眠りに就いた棺はカープカラーの赤だった。

 大野豊氏は涙が止まらなかった。投手王国と評された広島黄金期をともに戦った盟友への弔辞。柔和な表情の遺影に故人の愛称「ペー」と呼びかけ、「現役時代はライバルであり、よき友だった。早すぎるよ…」と声を詰まらせて読み上げる。

 「昨年3月のカープレジェンドゲーム。ペーは、我々と一緒にマツダスタジアムのマウンドにいた。覚えていますか?これからもずっと一緒。その雄姿を忘れることは決してない。私の心の中にずっと居続けています」

 OBの黒田博樹氏から提案され、闘病中で参加を断念した北別府さんの背番号「20」のユニホームを、大野氏が着て登板したイベントにも触れた。「一日も早く元気に」との思いを込めて白球を投じた当日を振り返り、早すぎる死を悼んだ。

 広島市内の斎場で午後1時から営まれた葬儀には松田元オーナーや一緒に黄金期を築いた山本浩二氏、達川光男氏など、46人のOBを含む球団関係者68人ら計191人が参列。球団最多の通算213勝をマークした偉大な投手をしのんだ。

 故人とバッテリーを組んだ達川氏は「一球に命を懸けた投手だった」と明言。精密機械と評された制球力に触れ「普通の投手はストライク、ボールがはっきりしているけど、北別府はボール一つどころか縫い目一つのレベル。審判を一番悩ませていた」と語った。

 北別府さんは20年1月に成人T細胞白血病(ATL)を公表。長男の大(ひろし=35)さんは、遺族を代表して謝辞を述べる中で「長くつらい闘病中、父は弱音を一切はかなかった。病気を克服し、214勝目を目指していましたが、213勝でストップとなりました」と無念さを明かした。

 法名は大さんが「不動院」と名前を入れてほしいと希望し「不動院釋学心(ふどういんしゃくがくしん)」。家族との写真や手紙、カープのメガホンやタオル、故人が好んだ焼酎などが入れられた赤い棺は、午後2時42分に出棺。旧広島市民球場に別れを告げるため跡地前を通り、不世出の大投手は荼毘(だび)に付された。

 北別府 学(きたべっぷ・まなぶ)1957年(昭32)7月12日生まれ、鹿児島県出身。宮崎・都城農から75年ドラフト1位で広島に入団。抜群の制球力を武器に78年から11年連続2桁勝利。92年7月16日の中日戦で球団初の200勝投手に。94年限りで引退し01~04年は広島投手コーチを務めた。通算515試合、213勝141敗5セーブ、防御率3.67。最多勝2度、最優秀防御率1度、沢村賞2度、86年セ・リーグMVP。12年に野球殿堂入り。右投げ右打ち。

 ▼山本浩二氏 いい意味で気が強い。野球や投手への情熱が背中から伝わってきた。思い出はたくさんある。なぜかペー(が先発)の時にめちゃくちゃ打った。3年前だったかな、私が手術し、ペーも同じように大きな手術を受けて。すぐに電話して“お互いに頑張ろう”と励まし合ったのが最後の会話になった。早すぎるよ。

 ▼山根和夫氏(投手王国をともに築く)気の強い、頭のいい投手だった。球速はそんなに出ていなくても、ボールの切れで勝負できる。あんたにライバルと言われたくない…というぐらい成績には差があるけど、負けたくなかった。北別府が勝ったなら自分も。そう思わせてくれる存在。残念でならない。

 ▼広島永川勝浩2軍投手コーチ(背番号20を受け継ぐ)私がカープに入って最初の投手コーチ。口調は厳しいけど、目が凄く優しいというか、温かみのある方。20番を付けた当初は怖かった。堂々と付けられるようにしてくれたのも北別府さん。教えていただいたこと、野球に真摯(しんし)に向き合う姿勢を、若い子たちに教えていけたら。

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